ないとうしんじゅく 【内藤新宿】 ○[歴]江戸時代、武蔵国豊島郡にあった信州高遠藩(タカトオハン)内 藤氏の地内に開かれた宿場。四谷大木戸(オオキド)から角筈(ツノハズ) 村までの地(現在の東京都新宿区一〜三丁目)。 品川宿・千住宿・板橋宿とともに、江戸四宿の一つ。甲州街 道の最初の宿駅で、青梅街道との分岐点。 遊郭ができて江戸の歓楽地として繁栄した。 成覚寺(ジョウカクジ)は遊女の投げ込み寺であった。 参照⇒じょうかくじ(成覚寺) ◎甲州街道の第一の宿場ははじめ高井戸(現在の杉並区)であっ たが、日本橋からの距離が四里二町(約16キロ)であった。そこ で浅草阿部川町の名主高松喜兵衛(キヘエ)と町人市左衛門(イチザエモ ン)・忠右衛門(チュウエモン)・嘉吉(カキチ)・五兵衛(ゴヘエ)の5名が内 藤家下屋敷の一部に宿場の開設を幕府に願い出て、1698(元禄 11)巨額の5,600両を上納して営業権を獲得、新宿開発を行う。 喜兵衛は高松喜六(キロク)と改名して代々名主となった。 この地は信濃高遠城主内藤若狭守の下屋敷であったことから、 「内藤新宿」と呼ばれた。 その後、風紀の乱れから1718(享保 3)宿駅が廃止された。事 の起こりは、四谷大番(オオバン)町(大京町)に住む御家人の内藤 大八が遊興の果てに内藤新宿の旅籠屋の下男に殴打されて帰宅 したことから、兄の新五左衛門は武士の恥として弟を切腹させ、 その首を持って大目付松平図書頭(ズショノカミ)を訪れ、私知行を 差し出して宿駅を取り潰すように願い出たためであった。 しかし、1772(明和 9)(壬辰)五世喜六の誓願により再開され、 「明和の立返り駅」と呼ばれた。 1887(明治20)眞崎仁六が水車を利用して眞崎鉛筆製造所(現: 三菱鉛筆)を創業。 1919. 4.(大正 8)内藤新宿町は四谷区に編入される。 1958(昭和33)遊郭街は売春防止法が施行されるまで赤線地帯 (アカセンチタイ)として賑わう。 参照⇒しんじゅく(新宿) |